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名古屋地方裁判所 平成10年(行ウ)19号 判決

原告

吉田時次郎

右訴訟代理人弁護士

伊藤勤也

阪本貞一

海道宏実

加藤美代

兼松洋子

長谷川一裕

松本篤周

村上満宏

被告

右代表者法務大臣

陣内孝雄

右指定代理人

鈴木拓児

片桐教夫

堀悟

小林孝生

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は、原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告は、原告に対し、五二万六一〇〇円及びこれに対する平成一〇年三月三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

一  本件は、株式会社の取締役であった原告が、所得税の確定申告にあたり、退職に際し得た金員は退職所得に該当すると判断し、退職所得控除をすれば非課税になるため、これを申告しなかったところ、税務職員に、右金員は事業所得であると言われ、これに従って修正申告し、納税したが、右修正申告は、その内容が誤りであるので、錯誤により無効であるが、そうでなくとも、強要されたものであり取り消したので、結局、右金員は被告が不当に利得したことになると主張して、その返還を求めるものである。

二  争いのない事実等

1  原告は、吉田経営管理事務所の屋号で、社会保険労務士、中小企業診断士の業務を行うとともに、平成六年一〇月二五日まで、訴外株式会社放電エンジニアリング(以下「放電エンジニアリング」という。)の取締役であった(甲一〇)。

2  原告は、同月二五日付けで、放電エンジニアリングの取締役を辞任し(甲一〇)、平成七年六月二〇日、同社から、四八〇万円の支払を受けた(甲一、二。以下「本件金員」という。)。

3  原告は、平成八年二月一九日、平成七年分の所得税の確定申告書を名古屋中税務署長に提出したが、同確定申告において、本件金員を事業所得の収入金額として計上しなかった(乙三)。

4  平成九年九月一一日、名古屋中税務署(以下「中税務署」という。)個人課税第二部門統括国税調査官菅沼良安(以下「菅沼統括官」という。)と中税務署個人課税第一部門係官越波札(以下「越波係官」という。)は、原告事務所に税務調査に赴き(以下「本件調査」という。)、原告から、本件金員は放電エンジニアリングからの退職金であるとの説明を受けた。

菅沼統括官は、本件金員は所得税法三〇条一項にいう退職所得にあたらず、事業所得に該当するものと判断して、原告に対し、修正申告をするよう促した。

5  原告は、同月一二日、中税務署において、本件調査に基づいてあらかじめ所得金額と税額が記載されていた平成七年分の所得税の修正申告書(乙四)に署名押印し、同日、これを提出した(以下「本件修正申告」という。)。

6  原告は、本件修正申告に伴い新たに納付すべき所得税額五二万六一〇〇円を、平成九年一〇月二〇日から平成一〇年一月八日までの間において、四回に分けて納付した(甲六の一ないし四)。

三  争点

1  本件金員は、所得税法三〇条一項にいう退職所得か。

(原告の主張)

(一) 原告は、昭和五三年四月、放電エンジニアリングの取締役に就任し、平均して月七日間程度、同社の渉外事務の処理を担当してきた。そして、原告は同社から、役員報酬として月額一五万円(毎月一〇日に「役員手当」として八万円、毎月二五日に「給与」として七万円)の支払を受けていた。

(二) 放電エンジニアリングの代表取締役であった小川米次郎(以下「米次郎」という。)は、一方的に、平成五年四月分から、原告の給与を二万円減額し、平成六年一〇月ころ、原告に対し、同社の取締役を辞任し、会社業務から離れることを求め、同月二八日に、原告の取締役退任の登記をし、同年一一月分から役員報酬の支払も停止した。

そこで、原告は、同年一二月、放電エンジニアリングに対し、給与の差額及び退職金の支払等を求めて、名古屋簡易裁判所に調停を申し立てたところ、同社が原告に退職金四八〇万円を支払うことで、平成七年五月二四日に右調停が成立した(以下「本件調停」という。)。

(三) よって、原告は名目上の取締役ではないから、本件金員は退職金であり、退職所得に該当する。

なお、確定申告にあたって、退職所得を計上していないのは、退職所得控除をすると退職所得がゼロになるからである。

(被告の主張)

(一) 所得税法三〇条一項にいう退職所得であるというためには、それが、従来の継続的な勤務に対する報償の性質を有することが必要であり、単なる名目上の取締役にすぎない者に支給される場合は、右退職所得には該当しない。

原告は名目上の取締役となる約束で放電エンジニアリングの取締役として登記されたにすぎず、取締役としての職務を行っていたものではないから、本件金員は退職所得ではない。

(二) 本件調停調書(甲二)には、本件金員が退職金である旨明記されているが、原告が名目上の取締役であったこと、及び、米次郎が、本件金員の支払の名目には特にこだわらなかったことからすれば、本件金員は、実際には退職金でなく、むしろ、同社がこれまで原告に依頼してきた、社会保険労務士及び中小企業診断士としての業務(ないしこれに付随する業務)を終了させるについての手切れ金ともいうべき性格の金員であり、事業所得である。

2  本件修正申告は、無効あるいは取り消しうべきものか。

(原告の主張)

(一) 納税義務の確定にあたり国民の意思を尊重するという申告納税制度の趣旨に鑑みるならば、申告者の意思は最大限尊重されるべきであり、その意思表示に瑕疵があった場合には、当該申告は、無効あるいは取り消しうるものと解すべきである。このように解しても、少なくとも国税通則法の認める期間内(更正処分においては、最大七年である。)においては、法の予定を超えて法的安定性を損なうことにはならない。

本件修正申告は、菅沼統括官や越波係官の執拗な修正要求に基づき、退職所得を事業所得と誤認するに至ったことによりされたものであって、錯誤により無効である。また、同人らの威嚇的言辞によって強要されたものであるから、取り消しうべきものである。

更正の請求が申告期限から一年以内しか認められない結果、申告期限から一年以上経て、税務署員の指摘により誤った修正申告をした場合、はじめから法定の是正方法は存しないこととなる。被告の主張する基準は、期限内に更正の請求が可能であったのにそれをしなかったという事案について当てはまるのであって、本件のように、そもそも権利救済が不可能な場合には当てはまらないというべきである。

(二) 仮に、本件修正申告に、被告の主張する基準が当てはまるとしても、本件修正申告は、〈1〉退職所得を事業所得とするという、明らかに性質の異なる収入の種類を取り違えたものであり、誤りが明白であること、〈2〉誤りの金額は五〇〇万円であり、本来の所得金額である九〇万一四八三円と比較してはるかに多額であって、誤りが重大であること、〈3〉法定申告期限の一年以上後にされており、租税法上の手続では救済が図られないこと、〈4〉税務職員の誤った事実認識に基づく強要によってされたものであることを考慮すれば、「特段の事情」があるといえる。

(被告の主張)

(一) 納税申告の過誤の是正方法として、錯誤により無効である等の主張が認められるためには、申告書の記載内容の過誤が客観的に明白かつ重大であり、所得税法の定めた方法以外にその是正を許さないならば、納税者の利益を著しく害すると認められるような「特段の事情」が存在することが必要というべきである。

修正申告で、しかも更正の請求の申立期間経過後にされたものであっても、確定申告の制度と同様に、納税者の不利益の回避、及び、租税債務を可及的速やかに確定させるという国家財政上の要請が考慮されているのであるから、この場合も、右基準は適用されるべきである。

(二) 本件修正申告に際し、菅沼統括官や越波係官が、原告を強要・脅迫した事実はないので、本件に「特段の事情」があるとはいい得ない。

第三当裁判所の判断

一  争点1(本件金員は、所得税法三〇条一項にいう退職所得か。)について

1  原告は、放電エンジニアリングの取締役として、同社の渉外事務を平均して月七日程度担当し、毎月一五万円の役員報酬の支払を受けていたのであり、本件金員は取締役を長年務めてきたことに対して支払われた退職金であると主張するところ、証拠(甲七の一ないし四、一一、一二、一三の一及び二、一五、乙六、七、一二、一三、原告本人)及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

(一) 原告は、米次郎とは、同じ会社(三菱電機)に勤務していたころからの知り合いで、米次郎が個人で高周波電気加工事業を始めた後は、帳簿の作成や税務申告を手伝っており、昭和五三年七月一日に、放電エンジニアリングを法人化するにあたっては、米次郎の依頼を受けて、会社成立の事務的手続を行い、同社の発起人となり、取締役にも就任した。このように米次郎と原告とは個人的に親密な関係があり、単なる社会保険労務士としての仕事上の付き合いだけではなかった。

(二) 原告は、放電エンジニアリングが設立されて以後も、同社から依頼を受け、雇用保険・労災保険関係の保険料の確定と概算など社会保険労務士としての業務を行うほか、毎月、同社の伝票類を原告の事務所に持ってきて、原告の妻を補助者として、同社の総勘定元帳を作成するなどの記帳業務をし、税務申告に関する事務も行っていた。また、米次郎やその家族ら個人の税務申告なども原告が行っていた。

(三) 米次郎は技術系の出身で事務に明るくなく、事務員は米次郎の妻である小川アヤ(以下「アヤ」という。)一人であったため、放電エンジニアリングの社員らは、対外折衝時に法的サポートを必要とする場合には、法的知識を有する原告に対して相談や応援を求めることが多かった。そのような要請に応じて、原告は、取引先の倒産などで抱えた不渡手形の取立てをしたり、支払の遅れた売掛金回収のため請求手続をとるよう社員に指示するなど債権の保全活動を援助し、毎年一、二台の割合で工作機械が購入された際、契約交渉の場に立ち会い、契約書を作成したりした。また、放電エンジニアリングの工場の電気工事について工事会社を紹介した関係で、電気容量から発生したトラブルについて、電気工事会社との折衝にあたったりした。そして、月に一、二回程度、得意先の接待の場に同席していた。従業員が交通事故に遭った場合には、呼び出されて保険会社への連絡など事後処理をし、業務上の事故といえない場合にも、事故に遭った従業員のための健康保険や休業手当ての申請などを行うことがあった(もっとも、その具体例として原告が述べるのは、原告の甥で放電エンジニアリングの社員となっていた吉田鉄夫が通勤途上で遭った交通事故に関するもので、放電エンジニアリングのために行ったものと評価すべきか、問題がないわけではない。)。

原告は、放電エンジニアリングのために、一か月の内七日間程度は時間を割いていたと主張するが、このような渉外業務のみではそれほどの時間に及ぶものとは考え難く、前記(二)記載の記帳業務などを含めてのものと考えられる。

(四) 原告は、放電エンジニアリングから、会社設立当初から、毎月一〇日ころに六万円(後に増額されて八万円となった。)の支払を受けていた。

これに加え、原告は、昭和五六年ころから、毎月二五日ころに五万円(後に増額されて七万円になった。)、年に二回、中元手当、年末手当として、一〇万円から二〇万円の支給を受けるようになった。右支払は、アヤにより、給料一らん表、賃金台帳及び給料支払明細表(以下、まとめて「給与台帳」という。)に記載されていた(甲七の一ないし三、一二)。

(五) 平成五年四月、米次郎は、放電エンジニアリングが赤字経営になったことや、このような事態においても、原告が具体的な経営のアドバイスをしなかったことから、原告に対する毎月二五日ころの支払を五万円に減額し、平成六年一〇月には、原告に対し、同社の仕事をやめるように伝え、毎月の支払を停止し、取締役の登記も抹消した。

(六) 同年一二月、原告は、同じく放電エンジニアリングを退職し、取締役を退任させられた吉田鉄夫と共に、同社に対し、退職金の支払等を求めて調停を申し立てたところ、平成七年五月二四日、同社が、原告に対し、退職金として四八〇万円を支払う旨の本件調停が成立した。そして、同日、同社と原告との間で、原告が平成六年一〇月二五日をもって、同社を退職し、労働契約が終了したこと、及び、同日をもって同社の取締役を辞任したことを相互に確認する旨の確認書(甲一〇)が取り交わされた。なお、本件調停には、米次郎らが利害関係人として参加し、米次郎が原告とその親族らが所有していた同社の株式を買い取るとの内容の調停が成立している。

2  右(三)の事実、及び、(一)のように、原告は、放電エンジニアリングの代表取締役と親しい関係にあり、社会保険労務士としての仕事の関係から単に取締役への就任を承諾しているというだけの関係ではないと思われること、本件調停調書において本件金員は退職金として支払われるものであることが明記されていることは、原告の主張を理由づけるものと解することもできる。

3  しかしながら、原告に対して毎月一〇日ころに支払われていた六万円ないし八万円は、社会保険労務士としての業務について報酬を請求する際に使用する「計算書」の摘要欄に「当月分費用」と記載されて、原告から放電エンジニアリングに請求され、これに基づいて支払われている(乙一〇の一及び二)。

このように、役員報酬(役員手当)が請求に基づいて支払われたり、「費用」とされることは通常なく、不自然であるから、右金員は役員報酬というよりは、記載そのままに、毎月の業務報酬、すなわち、社会保険労務士の業務に対する顧問料的支払分と総勘定元帳の作成という記帳業務に対する報酬とが合わさったものであると解するのが相当である。

原告は、本人尋問において、同社との間では顧問契約を締結していないと供述するが、一方で、社会保険労務士の業務として細かい仕事をした場合には、役員報酬を支払ってもらっているので社会保険労務士としての業務の報酬を請求していないとして、実質上、右「当月分費用」の支払が、細かい業務に対する報酬を請求しないことの見返りであることを認める供述をしており、このような事実からすると、より端的に顧問料の支払がされていたとみるのが相当である。

4  原告に対して毎月二五日ころに支払われていた五万円ないし七万円は、アヤにより給与台帳に記載されていたものの、原告が作成していた放電エンジニアリングの総勘定元帳上は「雑費」として処理されている。また、原告の専従事業者である原告の妻は、一旦は給与支給にかかる出金伝票に記載された五万円の支払を訂正して、雑費として五万円の出金伝票を作成している(乙一四、一五)。このような事実からすると、原告は、右五万円が役員報酬(給与)でないことを意識していたものといわざるを得ない。

毎月二五日ころの支払は、放電エンジニアリングが清洲町に工場を移したころから、同社の営業が伸展し、取引先や従業員も増え、それに伴い原告の負担も増加してきたため、米次郎が、原告に対し、支払うこととしたものであって(乙七)、毎月一〇日ころの支払を増額したものと見るのが相当であり、その性質は3認定のとおり業務報酬というべきである。

5  証拠(乙八の一及び二、九、原告本人)によれば、原告は、平成六年分以前の所得税の確定申告において、放電エンジニアリングからの収入を、全て事業所得として取り扱ってきたことが認められる。

また、原告は、平成四年二月二四日、中税務署大蔵事務官作成の聴取書(乙一七)において、原告自身が、放電エンジニアリングを含めて三社の取締役になっており、株主にもなっている、配当をもらったことはあるが、役員報酬をもらったことはないし、雇用契約のようなものを結んだことはないと答えている。原告は、本人尋問において、役員報酬をもらっていないのは放電エンジニアリング以外の二社について述べたものであると供述するが、間違った内容の供述をしたことについての説明はない。右聴取は、本件の問題が発生する前に行われており、信用性は高い。

6  本件調停調書には、本件金員を退職金として支払う旨記載されているが、証拠(甲一四の一及び二、乙六)によれば、放電エンジニアリングが、原告の金員支払請求に対して四八〇万円の限度で支払に応じたのは、原告から、原告を被保険者とする郵政省の簡易保険(一五年満期養老保険)の現在高が四八〇万円弱であることを指摘され、右保険金を原資として原告に金員を支払って紛争を解決することとしたためであると認められ、本件金員の性格について、本件調停が成立するまでの間に、原告と放電エンジニアリングの間で見解の一致を見たことの証拠もないことからすると、原告の主張するところをそのまま調書に記載することになったものと解される。

なお、右簡易保険は、昭和五七年二月二七日、放電エンジニアリングが、取締役であるため中小企業退職金事業団に加入できない米次郎及びアヤの退職金に充てるため契約した際、郵便局の職員から税法上も有利であると言われて、原告を被保険者とする保険契約も締結したものであり(乙六)、原告の退職金に使途が限定されているものではない。

7  前記1の(二)(三)で認定したとおり、原告が放電エンジニアリングの渉外事務に関与していた事実はある。

しかしながら、前記認定によれば、原告が、放電エンジニアリングから社会保険労務士、中小企業診断士としての業務の委託を受けており、しかも、同社の創業以前から米次郎と個人的に親しい関係にあったことから、トラブルが発生したりした場合に、同社の社員らが、法的知識がある原告に相談することがあり、そのようなことが度々重なって、原告が同社の渉外事務に関与する度合いが増えてきたものと思われるが、同社の業務全体から見れば、原告が関与した割合はそれほど高いとはいえない。

このような諸事情を総合考慮すると、原告は、社会保険労務士、中小企業診断士の業務もしくはこれに付随する業務として、前記のような渉外事務に関与していたと解する余地が大である。

結局、原告が、取締役として右渉外業務を行っていたとは認められない。

8  以上の事実に鑑みると、原告は放電エンジニアリングの名目的取締役であって、取締役としての業務の対価を得ていた事実はなく、同社と原告との間には、社会保険労務等に関する契約(顧問契約があったと認められる。)と、これによる報酬の支払の関係が続いてきたにすぎないものと認められ、本件金員は、右社会保険労務士としての業務等に関する契約関係が終了したことに関して支払われた、手切れ金的なものであると認められる。

そうすると、本件金員は、所得税法三〇条一項にいう退職所得ではなく、社会保険労務士等として原告が行う業務に関して得られた所得であって、事業所得に該当する。

第四総括

以上判示したところによれば、その余の点について判断するまでもなく、原告の請求は理由がないから、これを棄却し、訴訟費用の負担について、行政事件訴訟法七条、民事訴訟法六一条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 野田武明 裁判官 佐藤哲治 裁判官 達野ゆき)

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